2月15日は釈尊涅槃会である。そこで、曹洞宗ではその日を前に『遺教経』を読誦し、釈尊の御遺徳を偲ぶこととしているのだが、拙ブログでは最近、戒律に関する学びを進めている関係から、同経で説かれる戒律について学びたいと思っている。
戒は是れ正順解脱の本なり、故に波羅提木叉と名づく。此の戒に依因すれば、諸の禅定及び滅苦の智慧を生ずることを得。是の故に比丘、当に浄戒を持って、毀犯せしむること勿るべし。
若し人、能く浄戒を持てば、是れ則ち能く善法有り。若し浄戒無ければ、諸善の功徳、皆な生ずることを得ず。是を以て当に知るべし、戒は第一安穏功徳の所住処たることを。
『仏垂般涅槃略説教誡経』
ここの肝心なところは、「正順解脱」である。意義としては、まさに解脱に順うことであり、「波羅提木叉」が禅定や智慧を生み出すことを指しているのである。なお、「波羅提木叉」の意義としては、「別解脱」と解説しているものと、「戒本」として解説しているものとあるけれども、この場合は「別解脱」に近いといえる。「別解脱」とは、その戒を実践することで、各別に解脱に繋がることをいう。
この場合は、戒による実践が、禅定・智慧へと繋がるのであり、結果として解脱になることを指すのだから、「別解脱」の意義であるといえる。なお、「別解脱」の観点から、この場合は戒を犯してはならないとしている。
そこで、更に、人が戒を護ることの意義については、善法や諸善の功徳を生ずるともしている。この場合の善とは、世俗的なそれとも対しないけれども、最大は仏道にとっての善である。善行は、我々の心の安定をもたらし、ここでいう禅定・智慧を生ずるのである。例えば、不殺生や不淫欲を考えてみれば良い。余程の過失であっても、我々は一度殺人に手を染めれば、それを記憶として引きずってしまう。或いは淫欲については、意図的でしかなく、それもやはり、我々の心の安定を破壊するのである。
戒を護ることとは、その本人にとって、より良い禅定を生ずるための、最大の準備であるといえる。結局、釈尊はその遺言として説いた教えは、その基本を示すものであった。転ずれば、このところこそ、釈尊の教えにとっての始終であったといえよう。だからこそ、戒を護持することが、生前の釈尊に改めて見えることにもなったのである。
また、『遺教経』の場合は、前回見た通りで、一部は具体的な戒律の実践内容を掲載している。それは、戒が決して理論的なそれではなくて、具体的な生活の中に根付いていることを示すことに他ならない。我々はそれを忘れてはならないのである。